原発と公害の記事が並んでいた2012年08月01日 21:17

原発と公害の記事がならんでいた

昨今の原発問題と米軍基地問題の報道を見聞きしていると、必要と説明する当局、いらないという反対住民という構図が似ているように感じる。両者ともなければないにこしたことはないが、政治や経済の事情から・・・・・。そして最近になって、原子力発電もなにやらアメリカとの関わりがありそうだということで、なおさら重なって見えてしまう。そんななか、先日の中日新聞の原発関連記事が目に留まった。このところ、週末に続けられている原発反対デモの記事と隣り合わせで、四日市の公害判決40周年の記事が掲載されていた。小学生だった私は、当時の訴訟運動のことはまったく知らないが、となりの市である四日市から何人かの同級生が”公害疎開”で転校してきたこと、父が被告側の会社に勤めており子どもながらに肩身の狭い思いをしたことなど記憶している。私たちは、社会の授業で水俣病やイタイイタイ病など公害問題の存在と反省について学んできたし、企業の社会的存在や責任が重んじられるようになった”歴史”を実感してきた。さらには、リコール隠し問題や毒物混入食品問題など企業の反社会的行為が、いかに大きなしっぺ返しをくうかということは、名の通った企業なら自覚しているのが当たり前となっている。今回の原発事故を東京電力という大企業の犯した公害という視点で見てみると、企業体質の時代遅れさが甚だしいことを改めて強く感じる。この未成熟な体質はなにが原因なのだろうか。そう考えていくと、結局いきつくところは”政治”の未熟さ。そして、政治の未熟さの原因は・・・・・。原発の安全神話や某政党のマニフェストのウソをもっとはやくから見抜けないと、政治の成熟にはとどかないのかも知れません。